秋の旅愁パチェンス他ー

 この場面をプラネタリウム版などの映像で観ると、なんて美しい風景描写なのだろうと思う。ところが、本文で直ぐあとの「七?十字とプリオシン海岸」の冒頭は

 おっかさんは,ぼくをゆるして下さるだらうか。ぼくはわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。

と表白することから始まる。その場面からは、命を犠牲にして人を助けるというカムパネルラの自分の信念と同時に、親孝行も満足に出来ずに死んでしまったという自責の念とtr90效果もとれる悲しい思いが伝わって来る。この美しいリンドウの花の風景からすぐ後に唐突過ぎるような悲しい内面描写への移行は、リンドウの特徴にもあると思えてならない。美しくも、群生することなく、花の少ない晩秋に咲き、さらに寄り掛かるススキ原のイメージとも重なって、どこか寂しさやもの悲しさを感じさせるのがリンドウであるからだ。私に都合のよい解釈かも知れないが、リンドウの花に託した賢治の思いをそのように解してリンドウを眺めていると、このうえなく愛する気が自然と湧き出てくるのである。



   げんのしようこのおのれひそかな花と咲く  」
 世を捨てた山頭火であればこそ、草花を愛らしく思う気持ちは強い。ゲンノショウコの可愛らしく凛とした姿と自らを比べ、自嘲的な笑みをこぼす姿が浮かんでくる。彼は亡くなる一ヶ月前にはこんな句を作っていた。
  もりもりもりあがる雲へ歩む
 足元にゲンノショウコを眺めて空を見上げると、今、りを歩いているのだろう、と心なしか淋しさを感じる。山頭火は、本当は何を捨て、何を得て、何を残したのだろう。

 秋は物思いや思慮を日常以上に深める季節である。贅沢や遠くを求めることなく、時には私のように自分を見つめる質素な一人旅に出るのもいい。

 旅行ではなく、いわゆる旅というのは不思議な力を持っているものである。旅の身空で一人になると日常の煩瑣から解放され、心身ともに自由となったような気分になる。すると、この時ばかりは感受性が解き放たれて五感が鋭敏となるのか、普段なら見過ごすような事柄あるいは自分というものを観察したり、素直に感じたことを反芻するのである。さらに、旅の情感には旅先での生活や営みがもたらす様々な喜怒哀楽もあって、それらが旅を豊かなものにし、貴重な思い出を織りなしてくれる。

 ところが、歓楽極まりて哀情多し。そのような旅先での大いなる喜びや楽しみが極まると、感情の深みまで下りて哀感へと転じてしまうことがある。愁いは人間存在の要の感情と言ってよく、本来の自分、実存の自覚を促す感情だ。その哀情こそが旅愁の正体だと思える。ついた錆は今ある活の中ではしかと自覚されるものではない。旅先での見知らぬ人との会話に生じる新鮮な空気が、あるいは沈黙を余儀なくさせるほどの自然の佇まいや美しい景観が、芸術や恋愛の感動?情動と同じような力でもって自分の心を洗浄し、付着した世俗の錆を落としてくれること請け合いだ。再生の旅、秋の旅愁に浸ることは「汝自身を知れ」ということであろうか。


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